土曜日, 3月 10, 2007

生きるとは-2

まあ、人類がかなりの長いスパンで人生を考えられるということが分かりましたが、実際それは私たち個人にどのような影響を与えるのでしょうか?

まず大事なのが,生物学的限界(120歳)を超えた延命を何故するのかという動機です。それは一言"死ぬのがイヤだかから"でしょう。それでは、何故死ぬのがイヤかというと、皆口をそろえて,"人生を終わらせたくないから"と語ります。しかし、本当に死は人生の終わりを意味するのでしょうか?
何故こんな疑問を抱くのかというと"死が人生の終わり"なら、私たちにとって死とは人生の終わりではないからです。これは一見矛盾しているように見えますが,ぜんぜん矛盾していません。
それは、死という事象が個人に発生した瞬間個人の人生が終わるなら,個人は死を"体験"することは出来ないはずであり、よって個人にとって"人生の終わり"は存在しないはずだからです。
まあ、"死"という事象の最大の特徴が"私たちにとって認識できないこと"であることでしょう。"死"が発生した瞬間,個人は無に帰ってしまいます。それなら何年生きていようがそれはあまり問題ではないはずです。しかし、せっかく1度しかない人生を生きているのだから、それをより長く楽しもうというのは正常な概念でしょう。

さて、ここから少し理屈っぽい話になりますが、そもそも"生/死"の概念について考えてみましょう。
もしあなたのからだの全てが機能停止したならば、それは死んでいるといえます。しかし、あなたが既に子供を産んでいるのならば、この問いに対する答えは複雑なものとなります。
男性の一部である精子と、女性の一部である卵子はそれぞれ減数分裂により通常の細胞の半数しか染色体をもっておらず、これらは融合することによって全く新しい性質の細胞となります。これが胎児です。胎児が細胞分裂を繰り返し,新しい個体としてデザインされます。しかし胎児は無から発生したものではなく、生殖細胞の変形であることは間違いありません。つまり、ヒトの細胞はがん細胞を除き限られた回数しか細胞分裂が出来ないはずなのに,生殖細胞に関しては脈々と自己の複製を作りつづけています。つまり、生体を構成する細胞が生き残れば個体は生きている、と定義するなら子供を産んだ人は仮に体の全てが機能停止しても"死んでいる"とは言い切れないのです。
しかし、人類はこれを当然のように死に含めています。それは、人類が心の底では意識のある状態を"生きている"となんとなく感じているからではないでしょうか?しかし、ゾウリムシのような単細胞生物にとって"生きている"とは、頭でモノを考え、それを言葉で表し,それによって新しい問題を発見し,それを脳に投げ、かえってきた情報をまた言葉で表し・・・ という人類にとっての"意識のある―生きている"状態とは異なっているのではないでしょうか?
しかし人類はゾウリムシが自律的に動いているのをみて"生きている"と判断します。
つまり、生物にとって"生きている"概念(生きていることに感じる価値)とはそれぞれ異なるわけです。最初の生物は自己の複製を繰り返す単なる化学物質だったのでしょう。それがより効率的に複製をするものが生き残っていった結果、今日のような複雑な生き物となったのでしょう。また、効率的に複製をするといっても今日ではその競争は同じ種間でのみ最も激しく行われるので、仮に生物としてみれば生殖能力が弱くとも、グループの中では優位に立てればそれが主流となります。(たとえば絶倫バカマッチョと、子供を何人でもエリートに育て上げることの出来る金持ちひ弱では、後者の方がグループの中では生殖的に優位にたち,前者は淘汰されるが、グループのほとんどが後者の子孫となった時,種全体としては生殖的に劣った存在となる。実際,一般的な旧世界ザルから優秀なホモミドが分岐した当初はホモミドは最も繁栄していたが、現在より優秀でネオテニーなものを追求したホモミドは種としては非常に脆弱であり,ゴリラやチンパンジー、ボノボ、ヒトなど数種類しか生存していない。旧世界ザルは繁栄を極めている。しかし、旧世界ザルよりもミジンコの方が種としては繁栄している。旧世界ザルはミジンコ類に比べ種としては脆弱である)
結局、生き物も物質の集合体であることに変わりは無く、我々人類は言語を使って意識を表しているけれども言語は突然変異によりホモ・サピエンスの喉の位置が下がってしまったため鳴き声のバリエーションが極端に増えただけであり,世の中を個体が把握しやすいように分節化するという本質は変わっていません。
なんだか物が言葉に対応しているように我々は錯覚することがあるけれども,言葉は鳴き声の延長であることは隠然たる事実であり,故に物が言葉に対応しているのではなく,言葉は勝手に世の中を分節化しているに過ぎません。言葉はそれほど高尚なものではないのです。
そして、言葉を使っていないミジンコが言語というものを想像することが不可能なように,私たちは言葉に代わる次世代のインフラを想像することすら許されないのです。
言葉が最新のインフラである私たちは自分の脳を"言語処理"と"言語で問題を渡すと解決してくれる脳(言語処理以外)"に分けることしか出来ません。ミジンコも与えられた最新のインフラと"それ以外"に世の中を分けているでしょう。しかし、言語処理とそれ以外という形でしか自己を把握できないわたしたちはミジンコの気持ちになることはできません。

そして、ミジンコも私たちも与えられた最新のインフラが機能しなくなると生きている価値を失ったように感じ,"死と実質的に同じだ"と考えます。私たちは永遠に意識を失うなら仮に小脳が体を管理してくれていてもそれを100%生きているとは思わないでしょう。

結局,生きていることも死んでいることもそれほど差は無いのです。もっとも、認識できない"死"について論じること自体が無意味ともいえますが。

まあ、仮に何万年、何億年も生きることが出来てもそれが幸せかどうかはわかりません。
今は標準と思っている自分の能力が,人類が進化するにつれてだんだん相対的に劣ったものなっていき,永遠に生きると考えるとサルどころかカビ扱いです。人類の本能を考えると人為的に進化を止めることも難しいでしょう。
人は数千年で肌の色が変わり,数万年で骨格などが変わり,10万年のスパンでは本格的に遺伝情報が異なったものになっていきます。そう思うと,ある地点で無に帰るのも永遠に生きることに比べれば悪くは無いのではないでしょうか。選択は「いつかの時点で無に帰る」か「永遠に生きるか」の二つに一つなのですから。

まあ、生き物は自分の与えられた環境しか見えないので,自分と同程度のレベルの人間だけ集め,仮想的にその時代を再現させれば結構幸せな人生が送れるのかもしれませんね。しかし、途中で未来人類がそれを壊しても気づかないまま無に帰るならどっちにしろ同じと思うのは僕だけでしょうかねえ?

スンスン・・

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